無駄

知り合いの吉田さんのコラムを取り上げます。
この文章の書き方も

SDC12、無駄。
誰しも自分のやっていることは有用だと思いたい。
どんな取り組みにも有用さの側面があるだろう。
また、どんなに無駄に思えることも、誰かの気づきや成長を促す。
だから、無駄なことなど一つもないと言い切ることもできる。
しかし、だからといって、自分のやっていることが周りにどんな影響を与えているのかということについて無関心、無自覚でいいのだということにはなるだろうか?
無駄というのは、たいてい無意識化されている。
だから、気づきにくい。
無駄とわかりながら何かをやる人などいないからだ。
では、その無意識にアクセスするよい方法はあるだろうか?
一つは、「コスパを考えろ」というやつだ。
たとえば、あるパフォーマンスを得るのに、どんなコストがどれくらいかかっているのかを具体的に調べてみるということだ。
これは、無駄発見の入門編としてすばらしい方法の一つだ。
しかし、もし「そんなことは当たり前にやっている」という中級者には、さらなる無意識にアクセスする中級編を紹介しておきたい。
それは、「ツケ払いにしていることを考えろ」というものだ。
「やっていること」はそれなりに自覚的であり、意識的でもある。
しかし、「やっていないこと」はかなり無自覚で、無意識的なのだ。
わたしたちは、そこに大量の無駄を生じさせている原因を抱えている。
やっていないことを経済合理的な枠組みを用いて眺めてみると、やらないことで「先に利益を得ている」という見方ができる。
つまり、「先に得て払いはツケている」という状態なのだ。
では、「やっていないこと」を炙り出すポイントはどこだろうか。
それは「本当はやるべきだけどやりたくない」というものだ。
苦手だと思っていること、面倒だと思っていること、好きではないと思っていることに焦点を当ててみるといい。それらは眺めてみると「やっていないこと」が多いはずだ。そして、それらは「本当はやったほうがいい」とも思っていることのはずだ。
こういう矛盾のあるところに無意識への入り口がある。
そして、その無意識には驚きの出口があるのだ。
その出口については、いまここには書かないのでぜひとも自分で入って出口を探して体験をもって確かめてみてほしい。
話を戻すと、、
いまの人間社会では、
自分がしないという利益を得ると、誰かがそのコストを払う。
まずは、それを考えたい。
しかし、そこで終わってしまうと入門編レベルで終わる。
中級編というからには、もう一歩踏み込みたい。
それは、自分がやらなかったことのツケを誰かに肩代わりさせることで、より大きな全体システムの働きにどんな停滞をもたらしているのかということを、つぶさに検討していくのだ。
このレベルに立って、初めて世界を変えるという基礎が見える。
ぜひ、自分の日常がどんな停滞をもたらしているのかを考えてみたい。
実際のところ、わたしたちは多くのものをツケ払いで得てきた。
しかし、世界と人類の関係を眺めて見ると、どうやらそれらの支払い期限はとっくに過ぎており「督促状」が突きつけられているようだ。
わたしたちの世代でそのツケを払ってしまいたい。

タイトルとURLをコピーしました